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新選組の屯所跡はどこ?何度も引っ越した理由や屯所巡り後に行きたいカフェも紹介します

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新選組の屯所が何度も引っ越していたことを知っていますか?近藤を局長、土方を副長として京都の治安を守るべく、討幕派の動きを制圧する役目を果たしていた新選組ですが、八木邸を含む、数か所の京都市内の屯所を移転しています。引っ越しをしていた理由はさまざまですが、京都に行くのであれば新選組の屯所巡りをするのもおすすめです。今回は新選組が何度も屯所を移転していた理由を歴史を交えながら紹介するとともに、屯所巡りをした後にぜひとも寄りたいカフェについてもまとめました。ぜひ参考にしてみてください。

新選組の屯所は何度も引っ越していた?

文久3年に結成した新選組は、9月に八木邸にて芹沢鴨を暗殺し近藤を局長、土方を副長とした組織が確立します。その後、隊士の募集を行い大所帯となり屯所が手狭になったことから、新選組の屯所は、京都市内を拠点にいくつかあったと考えられています。1つ目は、八木邸・前川邸。2つ目は隊士の増加に伴い移った西本願寺。3つ目は西本願寺が死刑・切腹・捕縛者の連行、鉄砲や剣術の訓練など、あるべき姿でないことに我慢が限界を迎え建設費を負担して建てた不動堂村。 最後が、王政復古の大号令により武家政治が廃止となったのを機に、幕府軍勢が陣取る伏見奉行所です。隊士の増員や時代の背景など、さまざまな理由で屯所が変わっていたことが分かります。

八木邸・前川邸

新選組屯所跡として有名な八木邸は阪急電鉄「大宮駅」から徒歩10分の場所にあります。

八木家は壬生村きっての旧家で、かつて壬生郷士の長老も勤めていました。将軍上洛の警護を唱えていた清河八郎に率いられて、京へ上洛してきた新撰組の主要メンバーとなる近藤勇・土方歳三・沖田総司らは、八木源之丞邸に割り当てられ宿所とします。

新撰組結成後に近藤勇一派と芹沢鴨一派の派閥が確立したことや、隊員が増え手狭になったこともあり、近藤派は八木邸の道路を挟んだ東側向かいにある前川荘司邸に移り、芹沢派は八木邸に残ったとされています。

八木邸には、土方歳三らによって酒に酔っていた芹沢が襲撃された刀傷が今も残されています。旧前川邸は個人が住む民家のため、屋敷内部を見学できないものの、玄関では新撰組関連のお土産が売られているので、気になる方はのぞいてみてはいかがでしょうか。

西本願寺

JR京都駅より徒歩20分弱に西本願寺があります。

八木邸・前川邸に分宿していた新撰組でしたが、池田屋事件をきっかけに注目を浴びます。幕府からの支援も手厚くなり、隊士も200人を超える大所帯となったため、八木邸・前川邸では手狭ということもあり新たな屯所を探します。

探している最中、西本願寺は勤王派で幕府に目をつけられており、長州藩士を匿い西本願寺本堂に火を放とうとしたときに、西本願寺門主が何でもするので本堂を焼かないで欲しいと言っていたことを思い出します。この言葉をきっかけに、西本願寺への屯所移動の交渉を持ちかけ、西本願寺の北東部にあった300畳もある集会所と太鼓楼を屯所としました。西本願寺門主としては断りたかったようですが、贈り物や多額の金銭交付をしても、押し切られてしまったようです。また、境内で鉄砲や剣術の訓練をはじめ、八木邸母屋の東側に建てていた文武館を解体し牢屋や首切り場を作ったこともあり、新選組はやりたい放題だったようです。

不動堂村

JR京都駅から徒歩7分に不動堂村屯所跡があります。

不動堂村屯所は、西本願寺が負担し建築した屯所です。元々西本願寺は仏の教えを広め、地域における教育・福祉・文化の拠点となっている場所のはずが、死刑・切腹・捕縛者の連行、鉄砲や剣術の訓練など、あるべき姿でないことに我慢が限界を迎えていました。境内に血のにおいがあるのは、西本願寺門主も頭を抱えていたことでしょう。困り果てた西本願寺は、土方歳三の指示下の吉村貫一郎と交渉を重ねます。結果として、西本願寺を立ち退く条件として、建築費・諸経費などを一切負担し、大名屋敷のような立派な建物に移転してもらうこととなりました。新選組としても、西本願寺から建築費を出してもらい、自分たちが使い勝手のいい建物を建ててもらうという好条件に大満足し、建物の完成を待って屯所を不動堂村に移転しました。不動堂村は1万平方メートルという広大な敷地に、表門、高塀、玄関門、長屋、使者の間、隊士たちの部屋、近藤や土方らの居間、客間、厩(馬屋)、物見櫓、中間や小者の部屋などがあり、寺のように広い台所や、1度に30人が入れる大風呂も準備されていました。

伏見奉行所

伏見桃山駅より徒歩4分に、伏見奉行所の跡地となる石碑があります。

伏見奉行所は鳥羽・伏見の激戦地だったこともあり、建物は残っていません。伏見奉行所跡の近くには、同じ時代に活躍していた坂本龍馬が襲撃された寺田屋があり、旧宅があった場所には、龍馬像や薩摩藩九烈士の石碑が立っていたり、隣には当時の寺田屋を再現した「旅籠 寺田屋」など、幕末の京都の動乱を堪能できる場所もあるので、一緒に立ち寄ってみるのもおすすめです。

王政復古の大号令により徳川慶喜・松平容保らが京を去ると、それに従って新撰組も不動堂村の屯所を引き払って、伏見奉行所に立てこもり新政府軍と激戦を繰り広げました。しかし、薩摩軍の砲撃を受け、伏見奉行所は炎上、旧幕派は壊滅してしまいます。

屯所を巡った後はカフェでコーヒー

新選組の歴史を感じながら屯所跡を巡った後は、余韻に浸りながらカフェでゆっくり休むのはいかがでしょうか。特におすすめできるカフェが「バイカルカフェ」です。JR京都駅「烏丸中央口西」より西へ徒歩5分という好立地にあるバイカルカフェでは、ケーキ、パン、サンドウィッチなどを食べることができます。お得なセットも取り揃えているので、お腹の好き具合で軽食を堪能するのがおすすめです。ゆっくり食事を楽しみながら、屯所の風景を思い出したり、新選組の著書を読むのもいいでしょう。食事処に困った時にはぜひ立ち寄ってみてください。

INFO

住所:〒600-8234 京都市下京区西洞院通塩小路下ル南不動堂町802番地 京湯元ハトヤ瑞鳳閣 1F

営業時間:8:00~18:00(17:30LO)

TEL:075-341-8108

サイトURL:https://baikal-cafe.com/

まとめ

いかがでしたでしょうか。今回は新選組が何度も屯所を移転していた理由を歴史を交えながら解説するとともに、新選組の屯所であった八木邸・前川邸、西本願寺、不動堂村、伏見奉行所について紹介してきました。新選組が何度も屯所を移転していた理由として、隊員が増員して手狭になったことや死刑・切腹・捕縛者の連行などに耐えられなくなった西本願寺門主が提案したことなど、時代背景を知ることができたのではないでしょうか。今回紹介した新選組の屯所跡は歴史を交えながら紹介しているので、京都に行った際は新選組に浸る一日を過ごすのもおすすめです。また今回は、屯所を巡った後に寄ってほしいおすすめのカフェとして、バイカルカフェを紹介しました。JR京都駅から5分とアクセス良好なので、ぜひ立ち寄って余韻に浸ってみてはいかがでしょうか。

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