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新選組を率いた近藤勇の生涯とは?一度は訪れたいゆかりの地もご紹介!

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近藤勇の人物像

近藤勇は、新選組の局長としてさまざまな功績を残した人物です。新選組は、幕末期に尊王攘夷を掲げた過激派の動きを沈静化させるための治安維持部隊として結成されました。

まず初めに近藤勇の生涯に迫ってみましょう。

1834年に農家の宮川久次郎の三男として誕生した近藤勇は、その才能を買われて16歳の時に天然理心流3代宗家の近藤周助の養子になったことから、近藤の姓を名乗るようになったのです。

天然理心流とは、派手さはないが実践本位の剣術であり、若いころからこの稽古に励むことで、実践力を身に付けていったと言われています。

20歳の時に松井つねと結婚したのち、30歳の年に浪士組への参加のために京都に向けて出発したのです。

もともと、浪士組は将軍の警護を目的として結成されたと認識し京都へ向かった近藤でしたが、実際にふたを開けてみるとその目的は尊王攘夷活動であることを知りました。

そこで、新たに結成したのが新選組の母体となる壬生浪士組です。

その後、京都守護職の松平容保の支配下にはいったのちに発足されたのが新選組です。

31歳の時には、新選組の名を世に広めた池田屋事件が勃発。

新選組はその後会津藩預かりから隊士全員が幕臣となり江戸幕府に仕えたのです。

しかしながら、幕府はわずか1年で崩壊し、翌年には近藤勇が属する旧幕府軍と、新幕府軍の争いである戊辰戦争が勃発しました。その初戦であった、鳥羽・伏見の戦いにおいて、新新選組が敗戦した際に、近藤勇は捕獲され斬首されて35歳の生涯を遂げたのです。

新選組局長としての活躍

新選組の最大の功績として挙げられるのが池田屋事件です。

長州藩・土佐藩などの攘夷派志士を新選組が襲撃したという事件です。

攘夷派志士たちによる京都での放火や幕府要人の暗殺計画を阻止するための襲撃は、会津藩の援護を待たずに新選組が単独で行ったものであり、土方隊が応援に駆け付けるまでの間戦い続けました。少数部隊であったにもかかわらず、攘夷派志士たちに多大な被害を与え、放火や暗殺の計画を阻止したことで幕府から大きく評価されました。

近藤勇は新選組局長として、少人数である部隊をうまく配置し、内部への踏み込みには沖田総司、永倉新八、藤堂平助、そして近藤自身の4人を選びました。沖田総司や藤堂平助が戦闘中に負傷等により離脱したことで一度は不利な状況に置かれたものの、近藤は局長として最後まで戦い抜きました。

新選組2人の局長

新選組の局長として有名だった近藤勇ですが、実は結成間もない時期にはもう一人の局長が存在したのです。

それが芹沢鴨です。

芹沢は、京都で将軍警護のために結成された浪士隊に参加し、そこで近藤勇や土方歳三、沖田総司たちと上洛しましたが、浪士隊の発案者である清河八郎のクーデターに反対して、脱退。その後、新選組の前身である壬生浪士において、筆頭局長になり、また近藤勇と新見錦が局長となったという経緯があります。

新選組以前から近藤勇とともに活動を共にしていた芹沢ですが、素行の悪さなどを原因として反芹沢派の土方や沖田らに暗殺されてしまいました。

新選組に、存在していたのがごくわずかであったことからあまり芹沢の存在は広く知られていませんが、近藤勇とともに新選組結成に尽力した人物であることには間違いないと言えるでしょう。

近藤勇と新選組の最期

新選組は、幕府のもとで京都の治安維持をおこない、活躍していましたが、大政奉還により政府の権限が天皇に移った頃から状況が変わり、反乱勢力として見なされるようになりました。

そこで、新政府軍に対抗するために甲陽鎮撫隊を結成しましたが、敗北し、近藤勇は捕まってしまいました。

近藤の処分に関しては、薩摩藩と土佐藩の間で意見が対立しましたが、土佐藩は新選組が坂本龍馬の暗殺に関与していたとみなし、厳罰を求めました。その結果、1868年に近藤勇は斬首されました。近藤の死後、土方歳三が新選組の指揮を執るようになりましたが、山口二朗との対立により新選組は分裂しました。

新選組は小さな部隊となり、函館に兵士の救出に向かった際に土方歳三は敵の銃弾を受けて最期を迎えました。土方の死により新選組も終焉を迎えたのです。

近藤勇が使用していたものは現存する?

近藤勇が使用していたものは京都東山にある霊山歴史館に多数保管されています。

稽古用に使用されていたとされる「阿州吉川六郎源祐芳」は、現存数が少なく貴重な新選組隊士の愛刀の一つとして全国各地から見学に訪問する方も多くいらっしゃいます。

その他にも、衣服の下に着用する鎖帷子と呼ばれる防具も展示されています。

使用品以外にも、新選組の袖章や池田屋事件感状、新選組隊士名簿 英名録など新選組、近藤勇ファンにはたまらない展示品が数多くあります。

霊山歴史館の所在地は、京都市東山区清閑寺霊山町1、市バス「清水道」または「東山安井」下車徒歩約7分のアクセスとなっていますので、ぜひ足を運んでみてください。

京都で近藤勇の足跡を巡る

続いては、近藤勇の歴史を知るうえで、訪れたいスポットをご紹介していきます。

1,池田屋跡地

新選組が有名になるきっかけとなった池田屋事件の跡地です。かつての旅館としての面影はありませんが、現在は池田屋という名前の居酒屋が営業されています。

店舗の正面には、「維新史跡池田屋騒動之址」という石碑が建てられています。

所在地は、京都府京都市中京区三条通河原町東入です。

2,八木邸

近藤勇や芹沢鴨ら13人の浪士隊が京に残り、新選組を結成した際に宿所としたのが八木邸でした。まさに新選組発祥の地と言えるでしょう。

京都市指定有形文化財にも指定されている八木邸では、新選組結成の経緯や活動の詳細などを詳しく説明してくれるガイド付きコースもあることから、まだ理解が浅い人であっても十分に楽しむことができる場所です。

所在地は、京都市中京区壬生梛ノ宮町24、阪急電鉄「大宮駅」、京福電鉄「四条大宮駅」より徒歩10分のアクセスとなっています。

拝観料は、大人:1,100円(税込)(ガイド・抹茶・屯所餅付き)

中高生:1,100円(税込)(ガイド・抹茶・屯所餅付き) 600円(税込)(見学のみ)

小人:800円(税込)(ガイド・抹茶・屯所餅付き) 300円(税込)(見学のみ)です。

見ごたえのあるスポットだと言えるでしょう。

3,洛中屋敷跡

池田屋事件ののちに新たな屋敷を建設した新選組ですが、その場所こそが新選組が最後に構えた屯所となりました。洛中屋敷跡として所在地、京都府京都市下京区南不動堂町、京都駅より徒歩5分の場所に位置していますが、正確な位置は不明とされています。

そのため、「新選組最後の洛中屋敷跡」と石碑には刻まれておりますが、石碑の説明文においては、此付近と記されていて、正確に場所が特定されていないことが伝えられています。

まとめ

以上、新選組局長の近藤勇の生涯や、新選組のゆかりの地についてご紹介してきましたがいかがだったでしょうか?

35年という短い生涯でありながら、さまざまな功績を残した近藤勇は、知れば知る程奥深い人物であると言えるでしょう。

そしてせっかく新選組、近藤勇のゆかりの地を辿るのであれば、あらかじめ歴史についての理解を深めておくことでより旅を充実させることができます。今回お伝えしたことが少しでも参考やきっかけになれば幸いです。

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