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新選組が世に広まるきっかけとなった池田屋事件とは?その謎に迫る

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幕末の謎「池田屋事件」とは

池田屋事件は、かの有名な新選組が残した功績の中でも一番と言われるほどの大きな出来事です。

1864年6月5日に起こった池田屋事件は、尊王攘夷派の長州藩、土佐藩などと幕府の対立のもとで起こったものです。

当時、新選組は、幕府側の会津藩の支配下にあり、尊王攘夷派の警備にあたっていました。そんな中、幕府側に尊王攘夷派の人間と繋がっているものがおり、天皇連れ去りの計画をしているという情報を得た際に、会津藩の援護を待たずに独自で立ち向かったというのが事件のはじまりです。

事件の舞台となったのが、旅館池田屋です。

池田屋に潜伏していた、長州藩・土佐藩の尊王攘夷派の志士たちを発見し、激戦を繰り広げました。

池田屋にいた攘夷派志士たちの人数は30人程度であったとされており、新選組は近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助、武田観柳斎、谷万太郎、浅野藤太郎、奥沢栄助、安藤早太郎、新田革左衛門の10人のみでした。

新選組は数少ない兵士にもかかわらず、尊王攘夷派に大きな被害を与えたとされています。

なお、この時の死者や捕虜の人数には諸説あり、断言されたものではありませんが、いずれにしても少数派の新選組が勝ち星を挙げたということには間違いありません。

後ほど池田屋事件の謎については詳しくご紹介していきますが、死者や捕虜の人数だけではなく、さまざまな不明点が残されているのが池田屋事件の特徴だとも言えるでしょう。

池田屋事件当日までの様子

尊王攘夷という考え

もともと、新選組が属する幕府側も、長州藩・土佐藩の反幕府側も尊王攘夷という考えは一致していたのです。しかし、なぜ対立してしまったのでしょうか?その原因は尊王攘夷の進め方や方法に違いがあったからです。

はじめに、幕府側は外国をやみくもに排除するのではなく、必要な知識や戦力などに関しては積極的に取り入れ、長期的な視野に立って攘夷を進めていくという考え方でした。

一方、長州藩を中心とする反幕府側は、一刻も早く外国を排除すべきだという考えのもと、幕府大老の井伊直弼の協力者たちを暗殺するなど、尊王攘夷が目的か、幕府をつぶすことが目的か、あるいは両方の狙いを掲げた上で強引な行動に出ました。

幕府は1862年に新たに会津藩の治安維持を命じ、近藤勇らを預かった後、薩摩藩と結託して長州藩を御所から締め出しました。これにより、幕府側と長州藩をはじめとする尊王攘夷派の対立が一層激化しました。

放火や暗殺の噂

ここで静かになる長州藩ではありませんでした。幕府への巻き返しを図ろうと、放火や暗殺などの噂が流れ、不安が続く日々が訪れました。その中で、動き出したのが新選組でした。放火の噂の中心人物である古高俊太郎に真相を問いただしたところ、それが事実であることを知り、一刻も早くその計画を阻止しなければならないという状況に立たされました。

新選組の局長である近藤勇はすぐに会津藩に情報を伝え、また会津藩が動き出す前に新選組は行動を開始する準備を整えました。そして、その夜に起こったのが池田屋事件でした。

数多く残る池田屋事件の謎

池田屋事件が起こるまでの出来事についてお伝えしてきましたが、続いては事件を取り巻く謎を取り上げていきましょう。

1,京都大火計画は本当にあったのか

池田屋事件のきっかけとなった放火暗殺の噂自体が嘘だったのではないかという説が存在します。先述の通り、中心人物から放火の計画を聞き出し、実際に放火が行われようとしていたというのが一つの説です。しかし、別の説では新選組が不逞浪士を検挙するための行動が失敗し、多くの犠牲者を出してしまったことへの反発を恐れて、新選組および会津藩が放火計画を捏造したというものもあります。

2,長州藩などの攘夷派志士たちの死

池田屋事件では多くの攘夷派志士たちが殺害されたとされていますが、そのほとんどが最後どのように亡くなったのかが不明のままです。長州藩の活動家として有名な吉田敏麿もこの池田屋事件で殺害されたとされていますが、彼がどのようにして命を落としたのかについては謎に包まれています。

3,事件当時池田屋にいた人は誰?

そもそも浪士たちが池田屋に集まっていたのは、新選組にとらわれた古高俊太郎を取り戻すための策を練るためでした。

その会合の参加者は明確になっておらずこちらも池田屋事件の謎の一つとなっています。しかしながら、当時の攘夷派志士の有力人物などと推測されています。

先に紹介した吉田稔麿については、この会合に出席するために訪れたのではなく、池田屋に泊まっていたから協力をしたと言われています。

さらに、本来であれば会合の中心的存在であった桂小五郎は、池田屋事件の際には現場にいなかったと桂自身が証言しています。

しかしながら、他の証言では事件当時池田屋にいたが、何とか逃げて殺害を逃れたという説もあります。

後者の説では桂小五郎を臆病者呼ばわりする者もおり、桂自身がその状況を恥じて嘘の証言をしているという可能性も否定できません。

4,沖田総司の離脱の真相

池田屋事件では数限られた新選組のメンバーのうち、局長の近藤勇がともに討ち入りに選んだのが、沖田総司、永倉新八、藤堂平助の3人です。

初めは新選組が有利に進んでいたものの、戦闘中に沖田総司が体調不良で倒れ離脱したとされています。また、藤堂平助も額を切られて戦い続けることができなくなってしまいました。

一時的に非常に不利な状況に置かれた新選組でしたが、その後に土方歳三たちが駆けつけたことで最悪の事態を免れたのでした。

沖田総司の離脱に関しては、体調不良のほか、病に倒れた、昏倒した、吐血したなどさまざまな説が挙がっています。どれが真実なのかはいまだに謎に包まれたままです。

しかしながら、もしも戦闘中に体調を崩すようなことがあれば、すぐに相手に隙を突かれていたのではないでしょうか?

また、沖田総司は近藤勇と2人で奥座敷に切り込んだとされていることから、仮に沖田総司の体調に異変があった場合、近藤がそれをかばいながら戦闘を続けるというのも不可能に近いことだと考えられます。

そう考えると、そもそも沖田総司が体調を崩したこと自体に疑問が生まれてくるという見方も出てくるでしょう。

現在の池田屋の様子

続いては、現在池田屋の池田屋がどのようになっているのかを見ていきましょう。

結論から申し上げますと、池田屋は現存していません。

ただし、池田屋があった場所には「池田屋騒動之址」と刻まれた石碑が建てられており、その場所には新選組をテーマにした居酒屋があり観光名所として人気があります。

所在地は、京都府京都市中京区中島町

地下鉄東西線京都市役所前駅から徒歩5分のアクセスとなっています。

既に池田屋はなくなっているものの、池田屋事件に興味・関心がある方にとっては訪れる価値のある場所であると言えるでしょう。

まとめ

以上、池田屋事件について明らかになっている事件の内容や、いまだハッキリのわかっていない謎の部分についてお伝えしてきましたがいかがでしたでしょうか?

池田屋事件は謎が多い分さまざまな見解があり、それを読み解いていったり、自分なりの解釈をしていくというのもまた面白さであると言えるのではないでしょうか?

今回は池田屋事件にスポットを当ててお話してきましたが、より新選組について理解を深めたいという方は、近藤勇、土方歳三、沖田総司と個々の人たちの功績を辿るのもまたおすすめです。

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