伏見奉行所(ふしみぶぎょうしょ)は、江戸時代に京都の伏見に設置された奉行所で、江戸幕府が京都やその周辺地域の統治や治安維持のために運営していました。伏見奉行所は、江戸幕府の直轄地である伏見を中心に、京都全体および近隣の地方にわたる統治を担当しており、幕府にとって重要な政治的・軍事的拠点とされていました。
この奉行所は、特に幕末期にかけてその役割が増していきました。当時、外国勢力の影響や尊王攘夷運動の高まりによって社会が不安定化していたため、伏見奉行所は地域の治安維持や幕府の秩序の維持に注力しました。幕末には新選組が伏見奉行所の協力を得て活動し、京都における治安維持や反幕府勢力の取り締まりを行いました。
伏見奉行所の建物や施設は、歴史の中で失われたものの、その跡地は現在も伏見の地にあり、歴史ファンや観光客にとって注目される場所となっています。また、伏見は今でも歴史的な町並みや伝統的な建築が残されており、幕末の動乱や江戸時代の政治の一端を垣間見ることができる場所です。
当時、幕府は尊王攘夷運動の取り締まりを強化しており、坂本龍馬もその対象と見なされていました。龍馬は薩摩藩や長州藩と連携して、薩長同盟の成立に尽力していたため、幕府にとっては危険な存在とされていたのです。
1866年1月23日(旧暦)、伏見の宿泊施設「寺田屋」に滞在していた龍馬は、幕府の命令を受けた伏見奉行所の役人たちによって襲撃されました。これは、いわゆる「寺田屋事件」として知られています。この襲撃により、龍馬は負傷を負いますが、恋人のお龍(おりょう)の機転によって、なんとか逃げ延びることができました。お龍が風呂場で襲撃を察知し、すぐに龍馬に知らせたため、龍馬は命を落とすことなく逃げられたと伝えられています。
この事件をきっかけに、龍馬はさらに幕府から追われる立場となりますが、その後も命を懸けて幕末の日本を変えるための活動を続けました。寺田屋事件は、龍馬が幕府の圧力に対しても屈せず、薩長同盟の成立や大政奉還への道を歩んだ象徴的な出来事となり、伏見奉行所もその舞台の一つとなったわけです。
伏見奉行所と坂本龍馬の関係は、この事件を通して、幕府の抑圧と、龍馬の革新への意志が交錯する場として重要な歴史的意義を持っています。