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新撰組が最後に暮らした屋敷「不動堂屯所」

慶応3年(1867)6月15日、新選組はそれまで壬生から移って第二屯所としていた西本願寺から、不動堂村(今のハトヤ瑞鳳閣付近)に移転しました。
大名屋敷のような広大な敷地と立派な建物で、一時期は100名ほどの隊士がおり、一度に30人が入れるほどの風呂もあったとのこと。屯所として半年余りしか機能せず、取り壊されてしまったこともあり、幻の屯所ともいわれています。

碑文
表)此付近 新選組最後の洛中屋敷跡
左)旧山城国葛野郡不動村
右)旧平安京左京八条二坊十五町
裏)二〇〇九年一〇月 ハトヤ瑞鳳閣建之

「不動堂屯所」碑

当地は古代の表記でいえば平安京左京八条二坊十五町にあたります。中世には八条院町とよばれ、鋳物生産が多数行われた、いわば工業地帯でした。
が、戦国時代には農村化し、江戸時代までに葛野郡不動堂村が成立しました。
しかし豊臣期に構築された、京都全域を囲い込む城壁・環濠「御土居堀」の郭内に位置していたため、「洛中」(都市)扱いを受けました。
幕末期、新選組がこの地域に屋敷を営みました。池田屋事件や禁門の変などでの活躍や、局長・近藤勇の政治的力量が高く評価され、慶応3年(1867)6 月、将軍徳川慶喜の直属の軍隊となりました。
これにあわせての新屋敷建設です。いわば最盛期の邸宅といえます。近藤勇の甥で隊士だった宮川信吉の書翰によれば、同年6月15日に入居しています。位置については、同書翰に「七条通り下ル」、幹部永倉新八の手記に「七条堀川下ル」とあり、当地付近に営まれたことは確実です。
が、厳密な場所や規模、建物構造などについては信用に足る史料が少なく、不明です。価値の低い記録による復元・叙述は極力さけなければ成りません。
同年12月の王政復古政変により、新選組はわずか半年で同屋敷を離れます。翌年1月の鳥羽伏見戦争の敗北ののちは、関東へ下り、解体の道を歩みます。当屋敷は維持されずに早々に消失して、静かな農村に戻ったことでしょう。
が、明治になり、近くに七条停車場(現京都駅)が設置され、しばらくして地域一帯が京都市内に編入されます。当地付近は地域史上はじめて京都屈指の「人の集まる場」となり、今に至ります。

新撰組とは?

幕末、京都守護職の松平容保の保護下にあった京都の治安部隊。近年まで史学的にはほとんど注目されていませんでしたが、新選組をテーマにした小説やテレビドラマ、映画などが作られるようになり、近年では日本史上のアイドル的存在となっています。
もとは幕府の隊士募集によって水戸や武蔵国などから集まった浪士たちによる「浪士組」。会津藩お預かりという形で「壬生浪士組」となります。当初は公武合体に基づく攘夷断行の実現をめざしていました。
そのころの京都で頻繁におこっていた倒幕派(尊皇攘夷派)つまり維新志士たちによるテロの鎮圧にあたり、その働きを評価され「新選組」という名を賜ったとされています。当初の隊士には、近藤勇、土方歳三、芹沢鴨、新見錦などがいました。

像その2

後の慶應3年(1867年)、新選組は幕臣への取り立てが決まり、ほぼ同時に不動堂村へ屯所を移すことに。局長の近藤勇は幕府代表者の一員として、各要人との交渉も行うようになりました。
しかし、新選組内部での権力争いや分裂などが当初から相次ぎ、粛清された隊士は芹沢や新見らを含め41人にも上るといわれます。結成から土方歳三の死までわずか6年。新選組は、幕末の動乱期を駆け抜けた最後の剣客集団であったといえます。

近藤 勇 (1834~1868) 新選組局長。武蔵国の農家に生まれる。学問好きの父から「三国志」や「水滸伝」などの英傑伝を聞いて育ち、武士となって国に尽くすことを切望するようになる。人望篤く、理想高き決断の人。
土方 歳三 (1835~1869) 新選組副長。侍の美学を貫いた「柔」の色白の美男子。新選組を結成以降、局長にかわり隊内の実務をこなしていた。「鬼の副長」に徹し「局中法度」に反するものを厳しく罰した。
芹沢 鴨 (1827~1863) 新選組局長筆頭。水戸の芹沢城主の末裔で豪士の三男。新選組時代乱暴者で、気に入らないことがあれば、すぐに周囲のものを殴ったらしい。近藤・土方ら試衛館派に粛清された。
永倉 新八 (1839~1915) 新選組副長助勤(二番隊隊長)。松前藩士永倉甚治の次男として、江戸下谷三味線堀の藩邸長屋に生まれる。食客として試衛館に出入りするうち、近藤勇らと親しくなり、ともに浪士組に参加。維新後は杉村義衛と名乗り、生き証人として「顛末記」を著し、新選組隊士の墓建立に尽力した。
新撰組が活躍した時代背景像

幕末、諸外国が鎖国中の日本に通商をせまり、数々の摩擦や紛争が起こり始めていました。江戸の天下泰平を乱されることを拒む心情は、攘夷運動となっていきました。しかし幕府は、黒船のような圧倒的な武力を見せられて、開国を選択します。
また江戸後期、日本の古典を研究する「国学」が発達し、本来の日本人固有の考え方を良しとする考え方が起こり、外圧の高まりとともに、天皇を敬う“尊皇思想”も高まりました。そして政治の中心が京都へと移っていきました。
その京都では、朝廷が攘夷の意志を示します。倒幕派が京都に集まるようになり、そのなかに幕藩体制に反対する土佐藩の郷士、坂本龍馬もいました。対する佐幕派(幕府を補佐する側)は治安維持にあたりました。新選組と坂本龍馬は敵対関係にあったわけです。
しかし、時代の風は王政復古、大政奉還へと向い、薩英戦争、馬関戦争などで諸外国の武力に屈し、日本は開国へと向い始めます。