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智積院の宝物館

観光

智積院の展示収蔵庫、宝物館は「弘法大師空海ご誕生1250年」を記念した奉修事業の一環として建立され、令和5年(2023)4月4日に開館いたしました。 適切な環境下での収蔵・保存、智積院に収蔵されている美術品などの公開・展示、学術研究や教化活動の発展、支援のための調査・研究の3点を基本理念とし、長谷川等伯一門による国宝障壁画の公開を行うほか、智積院が有する約8万点の収蔵品(宝物や高僧の著作など貴重な古文書)の一部を季節に合わせ順次、公開していく予定となっています。 エントランスでは智積院の歴史や智山派を紹介する展示グラフィックの公開、智積院の歴史と四季折々の境内の様子をご覧いただけるガイダンス映像を流しております。学山智山と呼ばれる智積院の魅力を是非ご体験ください。

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→智積院の見どころ

絢爛豪華作風

長谷川等伯は、漢画に大和絵の手法を取り入れ、優美な表現で御用絵師として活躍した人物です。彼らが活躍した安土桃山時代においては、豪華絢爛であり華麗な作風が人気を集めていました。それは織田信長や豊臣秀吉らに好まれていたことが理由であり、長谷川等伯も、このような権力者たちが好むような華麗で装飾性の高い作品を描いていたのです。特徴としては緊迫銀箔などを貼り、豪華絢爛に仕上げていました。

30代前半には一念発起して京都へ

このように大きな活躍を見せ、室町から桃山時代にかけては、政治や文化の中心であった京都において、長谷川等伯らが、絵画制作を一体に引き受けていたのです。このような時代に生まれた長谷川等伯は重仏子となり、30代前半には一念発起して京都を目指します。等伯は画力にかなりの自信を持っていたのですが、絵の仕事を回したくても跳ね返されてしまい、何度も悔しさを味わいます。

千利休との出会い

このような状況に報いるために、等伯は戦略を練りやがては大仕事を遂行することになります。等伯は逆風にさらされながらも、わずかな人脈をフルに活用し、千利休等との人脈を築いていきます。こうして絵師としての知名度をどんどん上げていったのです。 長谷川等伯の代表作品には様々なものが挙げられますが、その1つが水墨画の最高傑作として日本美術市場に名を残している松林図屏風です。しかし実はこの作品には多くの謎が残っているとされています。静寂な情景だと言われているものの、そのタッチが非常に荒々しく感じられます。重要ポイントは上の継ぎ目が所々あってないので、構図が不安定に見えてしまうのです。実際に上杉を正しく合わせてみると、地面の高さにズレが生じることから、本来はこの間にも違う柄があったのではないかといわれています。このようなことからしたかったのではないかと考えられていますが、真相は闇の中とも言えるでしょう。

松林図屏風

この時代の絵師としては非常に珍しく、20代半ばから晩年の60から70代までの作品が知られています。その中でも水墨による市場性に溢れた潤滑で待機的な松林を描いている松林図屏風、大和への優美さを残しながらも、ダイナミックに楓の樹木を表現している楓頭壁貼付は、傑作として現在でも日本絵画に輝いているのです。彼の作風は生涯にわたって大きな変化を見せていて、手掛けられた作品においても、仏が家肖像画を始めとし、水墨画など、素材や用途を取ることなく、幅広い個性を持っています。長谷川等伯は1539年に、能登の国七尾に生まれていますが、その出生に関しては実は様々な説が複合しているのです。武家の奥村家から近親者を通じて、養子に出されたとする説が一般的です。また誰に得を学んだのかに関しても諸説あります。等伯の養父である人物、もしくはその祖父とする説が大きく聞かれます。

その最後

29歳の頃に息子が生まれたのですが、33歳の時に両親が他界します。その後は強烈に対抗意識を抱きながらも尽力して、千利休など、豊臣秀吉に関係する人たちと、どんどん交流を重ねながら次々と作品を制作していくのです。しかし1593年になると、息子は26歳で亡くなり、豊臣家が滅亡するなどのこともあり、その障害は順風満帆とは言えず、苦節の連続であったことがわかります。1610年になると、72歳の頃に徳川家康が招いたことで上京するものの、旅の途中で病に伏します。上京した後、なんと2日で亡くなってしまったのです。とは言えその功績は非常に甚大なものであり、独自の様式として確立がなされています。彼の最晩年の傑作は龍虎図屏風と呼ばれるものです。制作の意図等は詳細は分かりませんが、晩年の制作であることが明確に判明しています。当時の武家社会で1番好まれた、伝統的な課題の1つ流虎を描いた屏風絵作品です。

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